和銅3年(710年)、平城京遷都の年、
長屋王は式部卿へと移動。
式部卿とは、国家儀式、並びに太政官の文官の人事を司る式部省のトップである。
7年程の在任中、長屋王は官人の人事の引き締めを行ったようだ。
養老2年(716年)、正三位へと上る。
その翌年(717年)、一つの転機が訪れる。
左大臣・石上麻呂(いそのかみ まろ※物部氏の子孫)の死去。
年が明け、718年、長屋王は中納言を経ずに、いきなり大納言に抜擢される。
これは、左大臣・石上麻呂亡き後、人臣の最高位に在った右大臣・藤原不比等に次ぐ地位、
朝廷内のナンバー2になった事を意味する。
これは、式部卿としての仕事ぶりが認められた結果なのか、
かつての太政大臣・高市皇子の息子としての特別待遇なのか、
或いは、その両方だったのかは…不明である。
歴史は常に動いている。
長屋王は式部卿へと移動。
式部卿とは、国家儀式、並びに太政官の文官の人事を司る式部省のトップである。
7年程の在任中、長屋王は官人の人事の引き締めを行ったようだ。
養老2年(716年)、正三位へと上る。
その翌年(717年)、一つの転機が訪れる。
左大臣・石上麻呂(いそのかみ まろ※物部氏の子孫)の死去。
年が明け、718年、長屋王は中納言を経ずに、いきなり大納言に抜擢される。
これは、左大臣・石上麻呂亡き後、人臣の最高位に在った右大臣・藤原不比等に次ぐ地位、
朝廷内のナンバー2になった事を意味する。
これは、式部卿としての仕事ぶりが認められた結果なのか、
かつての太政大臣・高市皇子の息子としての特別待遇なのか、
或いは、その両方だったのかは…不明である。
歴史は常に動いている。