さて、熊野の旅の続きを。
神倉山の石段を登り始めた我々は…

既にヘトヘト。

↑
ようやく“御神体”が見えてきた!
↓

閉ざされた御神門の向こう側…どころか、御神門からはみ出しているが、
この御神体とされる大岩は、
『ゴトビキ岩』
と、呼ばれている。
因みに、“ゴトビキ”とは、熊野の方言で
ヒキガエルを意味するとか。
熊野速玉大社の社伝では、
このゴトビキ岩に“熊野の神”が最初に降臨し、
それが
“クマノハヤタマノオオカミ”
であるとされている。
そして、社殿の無いこの原始信仰スタイルの時代が長く続いた後、
第12代・景行天皇の時代に、現在の熊野速玉大社が造営され、祭祀の場が移されたという。
したがって、現在の熊野速玉大社を
新宮(あたらしのみや)
ゴトビキ岩の神倉神社を
元宮(もとのみや)
という位置付けとなっている。
ゴトビキ岩の根本を見ると…
↓

縄文~弥生時代頃の、典型的な岩影遺跡状態の祭祀場となっている事がわかる。

ところで、この神倉神社、
主祭神が
アマテラス&タカクラジ(高倉下)
とされているのだが、これがまた不自然。

ここに降臨した“熊野の神”を祀る
熊野速玉大社と同様、熊野速玉大神を何故祀らないのだろうか?
また、社殿では、
カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)が熊野に上陸した後に毒気によって意識不明に陥った時、
その危機を打開する為に、
夢の御告げにしたがって、かつて出雲を平定したタケミカズチが使っていた剣
“フツノミタマ”を持ってきたのがタカクラジ(高倉下)であり、
“夢の御告げ”の中で、タケミカズチが霊剣・フツノミタマを降ろしてくれた所が
このゴトビキ岩であるとされているのだが…
剣が置かれていた場所についてだが、
古事記・日本書紀には、タカクラジの倉の中と書かれているものの、
大岩の上と解釈できる記述は一切無い!
タカクラジ(高倉下)の夢の御告げとゴトビキ岩を結びつける考え方は、平安末期以前の文献には一切無いそうで、
平安末期の院政や源平の争いの中での政治利用と考えるのが妥当か?
いずれにしろ、記紀を基本とする考えに則れば、神倉神社の主祭神を
アマテラス&タカクラジ
とするのは、全くもって不自然である事がお分かり頂けるだろう。
神倉山の石段を登り始めた我々は…

既にヘトヘト。

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ようやく“御神体”が見えてきた!
↓

閉ざされた御神門の向こう側…どころか、御神門からはみ出しているが、
この御神体とされる大岩は、
『ゴトビキ岩』
と、呼ばれている。
因みに、“ゴトビキ”とは、熊野の方言で
ヒキガエルを意味するとか。
熊野速玉大社の社伝では、
このゴトビキ岩に“熊野の神”が最初に降臨し、
それが
“クマノハヤタマノオオカミ”
であるとされている。
そして、社殿の無いこの原始信仰スタイルの時代が長く続いた後、
第12代・景行天皇の時代に、現在の熊野速玉大社が造営され、祭祀の場が移されたという。
したがって、現在の熊野速玉大社を
新宮(あたらしのみや)
ゴトビキ岩の神倉神社を
元宮(もとのみや)
という位置付けとなっている。
ゴトビキ岩の根本を見ると…
↓

縄文~弥生時代頃の、典型的な岩影遺跡状態の祭祀場となっている事がわかる。

ところで、この神倉神社、
主祭神が
アマテラス&タカクラジ(高倉下)
とされているのだが、これがまた不自然。

ここに降臨した“熊野の神”を祀る
熊野速玉大社と同様、熊野速玉大神を何故祀らないのだろうか?
また、社殿では、
カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)が熊野に上陸した後に毒気によって意識不明に陥った時、
その危機を打開する為に、
夢の御告げにしたがって、かつて出雲を平定したタケミカズチが使っていた剣
“フツノミタマ”を持ってきたのがタカクラジ(高倉下)であり、
“夢の御告げ”の中で、タケミカズチが霊剣・フツノミタマを降ろしてくれた所が
このゴトビキ岩であるとされているのだが…
剣が置かれていた場所についてだが、
古事記・日本書紀には、タカクラジの倉の中と書かれているものの、
大岩の上と解釈できる記述は一切無い!
タカクラジ(高倉下)の夢の御告げとゴトビキ岩を結びつける考え方は、平安末期以前の文献には一切無いそうで、
平安末期の院政や源平の争いの中での政治利用と考えるのが妥当か?
いずれにしろ、記紀を基本とする考えに則れば、神倉神社の主祭神を
アマテラス&タカクラジ
とするのは、全くもって不自然である事がお分かり頂けるだろう。