島原の乱で原城に籠った一揆勢の戦術面は、かつて小西家や有馬家といった
旧・豊臣恩顧の大名の下に居た浪人衆が担っていた。

その浪人衆が、戦力増強を狙ってキリシタンやキリシタン以外の重税に喘ぐ農民を集める為に、益田(天草)四郎時貞と宣教師ママコスの予言をリンクさせた可能性は高い。

そして、その浪人衆の真の狙いこそ、
“豊臣家の再興”だった可能性か高いのだ。

更には、そのキーマンこそが豊臣の血を受け継ぐ者…
それが、四郎時貞だったという。

つまり、四郎時貞とは、薩摩に落ち延びた秀頼が、現地で作った子供だった可能性が有るという事である。

だからこそ、浪人衆はかつて秀吉が使っていた“逆さ瓢箪”を旗印として戦い、
鎮圧に向かった松平伊豆守は、浪人衆の真の狙いを知ったからこそ、
何が有っても徳川幕府の屋台骨を揺るがすような芽を摘み取ろうと、
“豊臣再興”を目論んだ一揆勢を全滅させた上に、全ての遺体の上から大石を落としてから埋める(キリスト教で信じられている“復活”の阻止を狙った、先史時代の復活させない為の呪詛)という事までしたというのである。

結果、松平伊豆守の“呪詛”が本当に効力を発揮したのかどうかは判らぬが、
この島原の乱を最後に大規模な反乱は無くなり、勿論、豊臣再興の動きもなりを潜め、
徳川幕府は260余年にわたる長期政権を築いたのは事実である。


歴史は常に動いている。