平戸イギリス商館館長“リチャード・コックス”が、大阪夏の陣の約三ヶ月後の
慶長20年(1615年)7月27日の日記の中で、
『フィディア様(豊臣秀頼の洗礼名)は、おそらく薩摩で少数の供回りと暮らしているらしい…』
と、書いている。
また、江戸時代中期に成立した『甲子夜話』にも、同様の話が納められている。
更に、江戸時代後期の『甲子夜話続編』や、
『薩州旧伝記』には、
“大阪夏の陣以降、薩摩に現れた秀頼公が毎晩酒に酔って往来で乱暴な振る舞いをしているが、一切構うなという触れが藩から出ていたので、人々は避けて歩いていた云々… 。”
といった記述も見られる。
しかし、何故、薩摩なのであろうか?
考えられる理由としては、関ヶ原以後、排他的な政策を取り、尚且つ家康が敵ながら一目置いていた島津義弘の薩摩藩以外、秀頼を受け入れる場所は無いとする説が有る。
この話は、薩摩藩が秀頼の存在を隠し通す事が難しいので、いっそのこと秀頼の存在を公言しつつ、その秀頼は所謂“うつけ者”とする事で、幕府の追及を逃れようとした物だとも言われている。
また、真偽の程は判らぬが、関ヶ原の戦いの後、八丈島に流された西軍の猛将・宇喜多秀家が、死ぬまで海の彼方を見つめながら、毎日のように
『島津殿はまだ動かぬか…?』
と、言っていたと伝えられている。
いつの日か、秀頼を擁する島津を中心として、豊臣再興の戦いの狼煙を上げる構想が有ったという噂もあるのだ。
あまりにも壮大な話だが、複数の書に記されているだけに、あながち絵空事とも言い切れまい…。
歴史は常に動いている。
慶長20年(1615年)7月27日の日記の中で、
『フィディア様(豊臣秀頼の洗礼名)は、おそらく薩摩で少数の供回りと暮らしているらしい…』
と、書いている。
また、江戸時代中期に成立した『甲子夜話』にも、同様の話が納められている。
更に、江戸時代後期の『甲子夜話続編』や、
『薩州旧伝記』には、
“大阪夏の陣以降、薩摩に現れた秀頼公が毎晩酒に酔って往来で乱暴な振る舞いをしているが、一切構うなという触れが藩から出ていたので、人々は避けて歩いていた云々… 。”
といった記述も見られる。
しかし、何故、薩摩なのであろうか?
考えられる理由としては、関ヶ原以後、排他的な政策を取り、尚且つ家康が敵ながら一目置いていた島津義弘の薩摩藩以外、秀頼を受け入れる場所は無いとする説が有る。
この話は、薩摩藩が秀頼の存在を隠し通す事が難しいので、いっそのこと秀頼の存在を公言しつつ、その秀頼は所謂“うつけ者”とする事で、幕府の追及を逃れようとした物だとも言われている。
また、真偽の程は判らぬが、関ヶ原の戦いの後、八丈島に流された西軍の猛将・宇喜多秀家が、死ぬまで海の彼方を見つめながら、毎日のように
『島津殿はまだ動かぬか…?』
と、言っていたと伝えられている。
いつの日か、秀頼を擁する島津を中心として、豊臣再興の戦いの狼煙を上げる構想が有ったという噂もあるのだ。
あまりにも壮大な話だが、複数の書に記されているだけに、あながち絵空事とも言い切れまい…。
歴史は常に動いている。