着任してから一ヶ月以上に渡り、松平伊豆守は矢文等を使って原城内の一揆勢に投降を呼び掛けていたという。

原城内には、旧・豊臣恩顧の浪人やキリシタン等、複数の派閥が有り、一枚岩ではない可能性が有ったからである。

しかし、切り崩しはなかなか上手く行かずに時は過ぎて行った。

ただし、伊賀者がもたらす情報により原城内の兵糧が尽きかけている事が解り、
寛永15年(1638年)2月28日、ついに総攻撃を決定したのである。

だが、またしても肥前佐賀藩・鍋島勝茂が抜け駆けをした事により、
その前日の2月27日に総攻撃が始まったという。

この日、原城内に残っていた一揆勢は全滅。
ついに、後に“島原の乱”と呼ばれる事になるこの戦いに終止符が打たれた。

総攻撃を前に、原城背後の断崖絶壁から脱出する者が多数居たという話しもあるが、
幕府側の公式記録では、情報収集の為に生かされた“山田右衛門”以外の一揆勢、全てが討ち取られた事になっている。

ただし、益田(天草)四郎時貞がどうなったのか、はっきりした事は判っていない…。


歴史は常に動いている。