原城をなかなか落とせないという報告を受けた幕府は、
大物の派遣を決めた。

老中・松平“伊豆守”信綱…
通称・知恵伊豆。

老中の出陣とは、異例中の異例、
まさに大事であるが、
幕府はそれだけ事態を重く見たという事に他ならない。

一方、原城を取り囲む討伐軍総大将・板倉重昌は、老中が来る事を知って、
逆に焦っていた。

自分が無能認定された事を意味するからである。
このままでは、たとえ原城を落としたとしても、その後、自分がタダで済むわけが無いと考えた事であろう。

寛永15年(1638年)正月1日、
老中到着までに結果を出すしか無いと考えた重昌は、無謀な突撃を敢行。

自ら原城の石垣に登り始めた重昌だったが、胸に鉄砲弾を喰らい、直後、投げ落とされた石が直撃。

あっという間の討死であったという。

板倉重昌討死の報を受けた幕府内では、
重昌では総大将は務まらぬと言って、この派遣にただ一人反対していた
総目付(後の大目付)・柳生宗矩の眼力に重鎮達が驚いていた。

柳生宗矩曰く、
“重昌は将軍家護衛責任者たる御書院番頭である事は間違いない。
しかし、大名としての石高は15000石。
10万石を越えるような大身の九州の外様大名は、言う事を聞かないだろう。”

果たして、重昌の一斉攻撃命令は無視され、先陣争いが起こってしまい、全軍の統制が取れなくなったのである…。


歴史は常に動いている。