肥前・肥後での一揆が大規模に膨れ上がった事を知った江戸幕府は、九州諸藩に鎮圧の為の出兵を命じると同時に、
鎮圧軍総大将として、幕府御書院番頭(ごしょいんばんがしら)・板倉重昌を派遣した。
“御書院番 ”とは、徳川将軍家直属の護衛を任務とし、板倉重昌はそのトップであった。
着任した板倉重昌は、九州諸藩の兵を率いて原城を包囲。
ここで重昌は驚愕の事実を知る。
旧・有馬氏の廃城だった原城は、長らく手入れもされずにいた為に、屋根瓦は落ち天井は抜け、壁も穴だらけで、簡単に落とせるはず…
だったのだが、その白壁はすっかり修復されており、堅固な要塞となっていたのである。
それでも重昌は何度となく攻撃したが、思うように戦果が上がらなかったという。
寛永14年(1637年)12月10日、そして12月20日、
板倉重昌は総攻撃を命じるも、原城に籠る一揆勢はこれをことごとく撃退したのである。
これには幕府もさすがに焦った…。
歴史は常に動いている。
鎮圧軍総大将として、幕府御書院番頭(ごしょいんばんがしら)・板倉重昌を派遣した。
“御書院番 ”とは、徳川将軍家直属の護衛を任務とし、板倉重昌はそのトップであった。
着任した板倉重昌は、九州諸藩の兵を率いて原城を包囲。
ここで重昌は驚愕の事実を知る。
旧・有馬氏の廃城だった原城は、長らく手入れもされずにいた為に、屋根瓦は落ち天井は抜け、壁も穴だらけで、簡単に落とせるはず…
だったのだが、その白壁はすっかり修復されており、堅固な要塞となっていたのである。
それでも重昌は何度となく攻撃したが、思うように戦果が上がらなかったという。
寛永14年(1637年)12月10日、そして12月20日、
板倉重昌は総攻撃を命じるも、原城に籠る一揆勢はこれをことごとく撃退したのである。
これには幕府もさすがに焦った…。
歴史は常に動いている。