島原の一揆に呼応するかのように、
1637年11月初頭、肥後天草でも住民が蜂起したという。

11月半ばまでに、天草の一揆勢は本渡城や富岡城を攻撃。
当時の富岡城代・三宅藤兵衛重利(あの明智光秀の娘婿・秀満の子だとか)が討ち取られた。

一方、この一揆の知らせは、11月8日頃には江戸に届いていたようで、
幕府は近隣の外様大名・細川家や鍋島家に鎮圧を要請したのである。

これを察知した天草と島原の一揆勢は、
当時、既に廃城となっていた旧・有馬家の居城であった
“原城”で合流。
37000人程に膨れ上がったという。

そして、この原城で総大将として祭り上げられたのは、
あの宣教師ママコスの予言を具現化したとされていた当時16歳の若者
益田四郎時貞だったのである…。


歴史は常に動いている。