一時は駿河・遠江55万石を与えられ、
駿河大納言とまで呼ばれた事もあった忠長。

これまでも書いてきたが、その改易の理由は、はっきりしていない。

ただし、事実として判っている事は、
幕府(家光)は忠長の存在に危機感を抱いていたという事である。

東海道を利用する西国大名は、参勤交代の折には必ず駿河に立ち寄り、忠長に挨拶を欠かさずしていたとか。

その頃は、まるで将軍が二人存在しているかのようだったとも言われている。

ましてや忠長が聡明であり、色男だったとなれば、この忠長を担いで家光を廃する動きが出るやも知れぬと怖れた幕府により、危険な芽を摘もうと先手を打たれたとも考えられる。

忠長自身にその意思は無くとも、周りが放っておかなかったであろう。

本人に罪は無くとも、大いなる“政治”の力の前に、捻り潰された悲劇の弟…だった可能性もあるのだが、今となっては真実は誰にも判らない。

最後に、徳川家の歴史書という位置付けである
『徳川実記』の中に、詳しくは書かれていないものの、忠長改易という判断は、やや理不尽と解釈出来る記述があることは間違いない…。


歴史は常に動いている。