寛永9年(1632年)10月20日、
改易となった忠長は、上野高崎藩第2代藩主・安藤重長に預けられる事となった。

それから一年少々後、
寛永10年(1633年)12月6日、
忠長の居た高崎・大信寺に幕府からの遣いとして、阿部重次がやって来る。

家光から忠長への“切腹”命令を伝える為だったという。

幕命に従い、忠長は自害。
28歳という若さであった。

その亡骸は大信寺に葬られたが、正式に墓が建てられたのは、それから43年後。
時は家光の子・4代将軍・家綱の世となっていたという。


歴史は常に動いている。