忠長が甲府へ蟄居を命じられた翌年の
寛永9年(1632年)1月24日、
大御所・秀忠が死去する。

そして同年初冬、10月20日、忠長は3代将軍である兄・家光によって“改易”となった。

“改易”とは、領国や居城を没収されてしまう事である。

こうして駿河徳川家は、僅か8年で消滅してしまった。

江戸幕府による大名の改易は、その大名が何等かの違法行為をしたとみなされた事を意味する。

果たして忠長には、改易までされるだけの理由が有ったのだろうか?


歴史は常に動いている。