元和6年(1620年)秋、
国千代は元服し、忠長と名乗る。
それに合わせ、従四位下・参議&左近衛中将となる。
それから三年後の元和9年(1623年)、
元服して家光と名乗るようになっていた兄・竹千代が、3代将軍の座に就くと同時に、
忠長は従三位・権中納言となった。
また、同年11月7日、
この時点で織田家嫡流とされていた織田信良(織田信長次男・信雄の四男)の長女・松孝院と結婚。
その翌年には、駿河国と遠江国の一部を加増され、合計55万石の大名となる。
将軍の弟として、忠長は申し分の無い待遇を受けていたと言えよう。
歴史は常に動いている。
国千代は元服し、忠長と名乗る。
それに合わせ、従四位下・参議&左近衛中将となる。
それから三年後の元和9年(1623年)、
元服して家光と名乗るようになっていた兄・竹千代が、3代将軍の座に就くと同時に、
忠長は従三位・権中納言となった。
また、同年11月7日、
この時点で織田家嫡流とされていた織田信良(織田信長次男・信雄の四男)の長女・松孝院と結婚。
その翌年には、駿河国と遠江国の一部を加増され、合計55万石の大名となる。
将軍の弟として、忠長は申し分の無い待遇を受けていたと言えよう。
歴史は常に動いている。