ところで、大塩平八郎が、決起前日に老中宛に出した書状はどうなったのか?

残念ながら、老中の手元には届いていない。

なんと、小田原の西南・伊豆山中に打ち捨てられていたのだ。
これを拾った者が伊豆・韮山(にらやま)代官所に届け、
内容を吟味した韮山代官・江川英龍は驚いて西国から江戸への防衛拠点・箱根関所に報告したという次第である。

どうやら、伊豆界隈の飛脚が幕閣宛の書状の中身が金品ではないかと考え、これを奪おうとして開封。
金品が入っていないと知るや、道端に棄ててしまったようである。

大坂市中であっさりと幕府正規軍に敗れた大塩平八郎が一ヶ月以上も逃亡を続けた理由は、
この書状が老中の手元まで届き、複数の老中の中の一人でも良いから何かしらの改革をはじめてくれる事を期待しての行動だったと考えられる。

しかし、全ての計画は失敗。
運に見放されたというべきか。

事件後、正式な沙汰がなかなか下されなかったが、
約一年後、大塩平八郎以下、門弟20人の塩漬けにされていた遺体が磔(はりつけ)に処されたという。

こうして、後に“大塩平八郎の乱”と呼ばれるようになる事件は幕を閉じた。

僅か半日で鎮圧された大塩平八郎の乱であるが、正面切って幕府に刃向かうという行為は、
幕閣並びに全国の大名はじめ武士達に衝撃を与えた。

そしてそれから約30年後、声高に“討幕”が叫ばれる時がやって来るのである…。

この事件については、先月の『歴史のお話』でも取り上げたので、
参考までに録画を御覧頂きたい。
                     ↓
https://www.youtube.com/watch?v=S6HMGW1Ejpc


歴史は常に動いている。