平八郎・格之助の父子は、河内へ逃亡し、その後は大和を経て、数日後には大坂に戻っていたようである。

その後父子は、美吉屋五郎兵衛の商家の裏庭の隠居部屋に潜伏していたという。

しかし、約一ヶ月後、美吉屋の女中が妙な事に気付くのである。
食事の用意が常に二人分多かったのだ。

その女中は、店の主人が善からぬ者に脅されていたり、何らかの犯罪に巻き込まれているのではないかと心配し、思案の末に大坂城代・土井利位にこれを報告したという。

土井利位は、これこそ大坂市中を騒がせた首謀者・平八郎が隠れている違いないと考え、
家老・鷹見泉石(たかみ せんせき)を美吉屋に向かわせた。

果たして、美吉屋に潜伏していたのは平八郎父子。
万事休す。

鷹見泉石率いる捕り方に囲まれた美吉屋の裏庭で、突如、爆発音が轟いた。
平八郎・格之助父子が、火薬を使って自決したのだ。

天保8年(1837年)3月27日、
改革を標榜した大塩平八郎は幕政にあっさりと跳ね返されて爆死した。
享年45歳。

遺体は爆発により顔の判別も出来ない程だったという。
故に、その後も大塩平八郎生存説もささやかれ、“大塩門弟”や“大塩残党”を名乗る小規模な騒ぎが頻発したとか…。


歴史は常に動いている。