天保8年(1837年)2月19日の昼過ぎ、
『救民』の旗を掲げ大坂の街で騒ぎを起こす集団に対し、幕府から大坂城を任されていた大坂城代・土井利位(どいとしつら)は、
2000人の軍勢を繰り出した。

幕府正規軍たるこの軍勢は、火器による武装が成されていた。

『救民』の旗を掲げ大坂城を目指していた平八郎一党は、この幕府正規軍と正面衝突する格好となってしまい、
あっという間に200人程が逃げ出してしまう。

100対2000となると、もはや多勢に無勢。
火力に勝る幕府正規軍は散々に平八郎一党を追い散らし、夕刻には完全に霧散させたのである。

この混乱による火災は翌日の夜まで続き、
大坂市中の約2割(約2万軒)を焼いたという。
しかし、平八郎を悪く言う者はほとんど無かったらしい。

平八郎の門弟達は捕らえられたが、平八郎親子は逃亡。
河内方面に向かったと思われる。


歴史は常に動いている。