天保7年(1836年)9月、都市部での打ちこわしが頻発する中、庶民救済計画が実行出来なかった平八郎は、陽明学の私塾『洗心洞』の門弟達に軍事訓練を始めていた。

“打ちこわし鎮圧”の準備として、である。
単なる訓練ではなく、大砲まで用意していた。
これは、徳川譜代・永井家の摂津高槻藩から借り入れた物だったらしい。

翌、天保8年(1837年)2月初頭、
平八郎は私財、特に、5万冊とも言われた蔵書を全て売却し、
600両以上(現在なら、さしずめ5000万円程度か)の現金を作り、周辺の農村に配布したという。

この時の平八郎、既にある決意を抱いていた…。


歴史は常に動いている。