天保7年(1836年)、大坂東町奉行・跡部良弼は、大坂でも多数の餓死者が出ているにも関わらず、江戸へ米を多量に廻送していたのである。
これは、翌年4月の将軍譲位(11代・家斉から12代・家慶へ)の祝賀行事に備えての事であると同時に、幕府に対する点数稼ぎでもあったという。
(※この時、跡部良弼の指示で江戸への廻米の現場を担当していたのが、西町の与力・内山彦次郎であり、これが三十年後に“天誅”のターゲットとされた遠因になったとも言われている。)
その為、大坂市中では米が品薄となり、豪商も米の買い占めを行った為に、米価高騰にますます拍車がかかってしまった。
こんな状況を見た平八郎は、自分の禄(旗本としての幕府からの基本給)を担保として金を借り、庶民救済に充てようと考えたらしい。
実際、平八郎は大坂の豪商・九代目鴻池善右衛門に一万両の借入を申し込んだのだが、旗本の将来の禄を担保に金を貸した前例の無かった鴻池は、困った末に跡部良弼に相談してしまったのである。
跡部良弼からの返答は、
『応じる必要無し。』
こうして、平八郎の思いは報われる事無く終わってしまった。
そして大坂市中では、“打ちこわし”(多人数で豪商を襲撃し、米を奪う行為)が相次いで起こる事態となって行く…。
歴史は常に動いている。
これは、翌年4月の将軍譲位(11代・家斉から12代・家慶へ)の祝賀行事に備えての事であると同時に、幕府に対する点数稼ぎでもあったという。
(※この時、跡部良弼の指示で江戸への廻米の現場を担当していたのが、西町の与力・内山彦次郎であり、これが三十年後に“天誅”のターゲットとされた遠因になったとも言われている。)
その為、大坂市中では米が品薄となり、豪商も米の買い占めを行った為に、米価高騰にますます拍車がかかってしまった。
こんな状況を見た平八郎は、自分の禄(旗本としての幕府からの基本給)を担保として金を借り、庶民救済に充てようと考えたらしい。
実際、平八郎は大坂の豪商・九代目鴻池善右衛門に一万両の借入を申し込んだのだが、旗本の将来の禄を担保に金を貸した前例の無かった鴻池は、困った末に跡部良弼に相談してしまったのである。
跡部良弼からの返答は、
『応じる必要無し。』
こうして、平八郎の思いは報われる事無く終わってしまった。
そして大坂市中では、“打ちこわし”(多人数で豪商を襲撃し、米を奪う行為)が相次いで起こる事態となって行く…。
歴史は常に動いている。