38歳で隠居届を出し、嫡男・格之助に家督を譲った平八郎は、自宅で開いていた陽明学の私塾『洗心洞』で、多くの弟子を育てていた。

それから三年後の天保4年~天保5年(1833~1834年)にかけて、冷害や台風によって米の収穫量が激減し、米価が高騰した。

所謂、“天保の大飢饉”の始まりである。

この頃の大坂西町奉行・矢部定謙(やべさだのり)は、隠居していた平八郎を顧問の様に遇し、また、算術(経済)に明るい与力・内山彦次郎を重用する事でなんとか危機を回避したようである。

(※因みに、内山彦次郎は、これから約三十年後、新撰組と大坂力士との乱闘事件を吟味し、
その数日後に“天誅”と書かれた紙と共に死体で発見される事となる。)

矢部定謙は、この後、勘定奉行に栄転したという。

それから更に二年後の天保7年(1836年)4月、
大坂東町奉行に、老中・水野忠邦の実弟である跡部良弼(あとべよしすけ)が就任する。

悪い事に、この年の夏、またも冷害に襲われ、
東北では10万人規模の餓死者が出た。
大坂でも多数の餓死者が出ていたが、
この時、跡部良弼は庶民にとっては信じ難い指示を出したのである…。


歴史は常に動いている。