弓削新左衛門が仕切っていた“武家無尽”を解体した翌年、
1830年(天保元年)、平八郎は武家無尽に関与していた数多の武家に対し、幕府評定所が如何なる裁定を下すのか見守っていた。

しかし、結果は平八郎を落胆させる事となる。

武家無尽には、幕府要人が複数関与していたらしい。
その中には、当時の筆頭老中・大久保忠真や、後に“天保の改革”に乗り出す老中・水野忠邦までもが含まれていたという。
ある種、組織ぐるみの御定法破りともなる大疑獄事件に発展する可能性も秘めていたのだが、
幕府は弓削新左衛門に全てを被せて幕引きとしてしまったのである。

つまりは、“隠蔽”したと考えられる。

それから一ヶ月後、この武家無尽摘発の後押しをした平八郎の上司、大坂東町奉行・高井実徳は病を理由に退任し、
ほぼ同時に平八郎は、なんと38歳で隠居届を出したという。

これには、幕府からの圧力が有ったとか無かったとか…。


歴史は常に動いている。