1087年11月に金沢柵に火を放ち逃走した清原家衡&武衡であったが、
その命運は、一ヶ月後には潰える事となる。

1087年12月、まず清原武衡が捕まり斬首となった。
そして清原家衡は、家人に変装し逃走を図るも、追手に討たれたという。

この後すぐに陸奥守・源義家は朝廷に清原家衡の追討官符の追認を要請したそうであるが、
朝廷はこの戦いを源義家の“私闘”と判断した為に、追討官符は認められず恩賞も出されなかったという。

これを受け、源義家は私財を切り崩して味方の兵(つわもの)達に恩賞を出したと言われている。

翌年、1088年1月、義家は陸奥守を罷免され、京に帰ることとなった。
義家は、朝廷から 税の滞納を咎められたらしい。税の中でも特に、陸奥の特産品“砂金”の滞納が問題となったようだ。
また、国司を勤めた者が必ず懸けられるはずの
“受領功過定”(ずりょうこうかさだめ※国司として働いた期間の成績評価)
にも懸けられなかったという。

それから十年後の1098年、
滞納していた税を納めきったからとも、
白河法皇の意向とも言われているが、
源義家はようやく受領功過定に懸けられ、
同年4月には正四位下に昇進している。

一方、陸奥では清原姓を名乗る者の中でただ一人残った清原清衡が奥六郡全てを入手する事となった。

それ以降、清衡は実父・藤原経清の姓を名乗り、
“藤原清衡”となり、これが奥州藤原氏の始まりと言われている。
そして、この時をもって清原氏は消滅した。
(後に平治の乱で敗れた源義朝の九男・義経を庇護したのが、清衡の孫・秀衡である。)

因みに、清原真衡の養子・成衡は、婚礼の夜以降の記録が無く、どうなったのか判らない。
一説には、この清原氏の内紛の最中に討死したとも、妻の兄にあたる源義家の庇護の下で生き延び、成衡の四男が後の南北朝時代にその名の出てくる標葉(しねは)氏の祖になったとも言われている。

これが、後に“後三年の役”と呼ばれる奥州の戦いの顛末である。

参考までに、こちらも同時に御覧頂ければ幸いである。
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https://www.youtube.com/watch?v=7reTuD8wJ-k&feature=youtu.be


歴史は常に動いている。