清原家衡と武衡が金沢柵に籠った翌年の
1087年、陸奥守・源義家と清原清衡は、何度も金沢柵を攻めるも、どうしても落とせずに冬を目前にしていた。

兄の窮地を知った源義家の弟・新羅三郎義光が、京の官職を辞してまで援軍に駆け付けたものの、事態は好転せず
沼柵で敗退した時の二の舞になるかと思われた。

そんな時、この戦いのきっかけを作ったとも言える吉彦秀武(きみこのひでたけ)が、兵糧攻めを進言してきたのである。

他に有効な策も無かった義家は、これを採用すると、金沢柵に対し徹底した包囲網を敷いた。

やがて、食料が残り少なくなった金沢柵から逃げ出して来た女を、義家は両陣営から見える所で即座に斬ってしまったという。

食料が少なくなった上に投降すらも許されない(食料は減る一方、人数は減らない)為に、進退窮まった事を知った清原家衡&武衡は、
同年11月、遂に金沢柵に火を放ち逃走を図ったのである…。


歴史は常に動いている。