さて、秀吉が国内最後の難敵・小田原北条氏の本拠地
“小田原城”
を落とす為に築いた城
“石垣山一夜城”
だが、
現地に立ってみると、ここがかなり本格的な山城であった事が解る。



↑この写真の左側の駐車場の更に外側の部分は、出城&土塁。
駐車場のスペースは、大空堀だったそうだ。



実際には、築城に約80日を費やしたという。

秀吉の指示で櫓や壁の骨組みまでできたところで紙を張り、周囲の木々を一気に伐採し、
城が突然できたかのごとく見せた…という伝説があるが、小田原方がこれを見て本当に戦意喪失したのかどうかは判らない。

ただ、これだけの城を築いたのは、秀吉が初めからかなりの長期戦を考えていたからだとか。



実際、秀吉はこの石垣山(笠置山)に約三ヶ月程滞在したらしい。

その間、ここに天皇の勅使を招いたり、淀殿を呼び寄せたりと、本格的に生活拠点にしていたようである。

映画“のぼうの城”で、忍(おし)城の成田氏攻めを任された石田三成が、決局は忍城を落とす事が出来なかったものの、
“北条の本城”が落とされた為に成田氏が開城降服した話が描かれていたが、
北条の本城=小田原城
である。




“天下の名城”と呼ばれた小田原城を落とす為には、生半可な前線基地では足りないという事であろう。



小田原北条氏が滅亡した後、徳川家康が関東に入り、江戸幕府統制下の治世では、
この石垣山一夜城は、徳川譜代・大久保氏の小田原藩が管理していたそうだ。

JR早川駅からかなりの登りとなり、また、車でも途中不安になるかも知れない程、畑しか無い山道なのだが、是非アナタにも一度行って頂きたい場所である。