慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去した事を知らされぬまま、半島で戦っていた日本軍であったが、
同年10月15日、秀吉の死が明かされぬまま、遂に五大老による帰国命令が出されたという。

こうして、日本軍は撤退準備を始めたのだが、
同年11月10日、順天倭城近海に明国・李氏朝鮮水軍が現れ、小西行長等は海路での撤退が阻まれてしまう。

この状況を、泗川倭城から退いて来た島津義弘や宗義智、立花宗茂・高橋直次兄弟等が聞くと、彼等は水軍を編成して順天倭城に向かった。

同年11月18日、露梁海峡で両水軍の戦闘が起こった。

詳細は不明だが、この戦いで、かつて日本の輸送船団を苦しめた李氏朝鮮水軍・李舜臣が戦死している。

一方、島津義弘等は苦戦を強いられたものの、
名だたる武将に戦死者は無かったとか。

そして、順天倭城の小西行長等は、この海戦に乗じて海路での脱出に成功。

11月末には、日本軍は半島から全て撤退し、秀吉の朝鮮&明国征服計画は終わった。

因みに、『明史』によると、
“明・朝鮮にはまるで勝算が無く、秀吉の死によってのみ戦いは終わった。”
とされている。


歴史は常に動いている。



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