稷山の戦いに勝利した日本軍は、全羅道に続き忠清道を手中に収めた。

ここまで来ると、日本軍は半島南部の実質的支配権を確立しようと、日本式の城を築き始めたのである。

慶長2年(1597年)11月の半ばから、半島南東部・蔚山(ウルサン)の地で、加藤清正の設計による築城が始まったという。

ところが12月22日、完成間近となっていたこの城に、明国騎兵・約1000が奇襲をかけて来た。

守将は浅野幸長と太田一吉。

この時、運悪く加藤清正、毛利秀元といった有力武将は、帰国準備の為に不在であったという。


歴史は常に動いている。



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