漢城に集結した日本軍は、兵糧庫を焼かれてしまった事もあり、籠城よりも場外での迎撃を選択した。
文禄2年(1593年)1月26日未明、
平壌郊外の碧蹄館で日・明双方の先鋒2000同士が接触。
日本軍の先鋒は、高橋紹運の長男・立花宗茂と、
次男・高橋統増(むねます)。
徐々に増援が到着する明国騎兵に対し、損害を出しながらも、宗茂・統増兄弟は一歩も退かずに奮戦し、なんとか撃退したという。
やがて、漢城から小早川隆景率いる20000が到着すると、立花&高橋隊は後退。
本隊同士の激突の時が近付いていた…。
歴史は常に動いている。
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文禄2年(1593年)1月26日未明、
平壌郊外の碧蹄館で日・明双方の先鋒2000同士が接触。
日本軍の先鋒は、高橋紹運の長男・立花宗茂と、
次男・高橋統増(むねます)。
徐々に増援が到着する明国騎兵に対し、損害を出しながらも、宗茂・統増兄弟は一歩も退かずに奮戦し、なんとか撃退したという。
やがて、漢城から小早川隆景率いる20000が到着すると、立花&高橋隊は後退。
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