平壌奪還に失敗した明国軍は、
沈惟敬(ちん いけい※チェン ウェイチン)を使節として平壌まで進出していた小西行長に停戦を申し出ていた。
結果、天正20年(1592年)8月29日、50日間の休戦協定が締結された。
一方、残存勢力を結集させ、大小合わせて150余の艦隊となっていた李舜臣率いる朝鮮水軍は、
休戦協定締結の前日、釜山東方の洛東江上流に日本輸送船団が停泊中である情報を掴み、これを攻撃しようとするも、
洛東江口が狭小であった為に断念。
翌日、釜山浦で多数の日本船が停泊しているのを発見した李舜臣は、ここで総攻撃を開始した。
しかし、それまで李舜臣に痛い目に遭わされていた日本軍は、日本船の航路に沿って陸上に銃・砲を配置。
輸送船団も、陸上兵器の射程圏内で移動する事を徹底させていたのである。
ここまで水上戦で連戦連勝だった朝鮮水軍も、日本軍の陸・海相互支援攻撃にさらされ、ついに大損害を出して撤退。
これ以降、暫く朝鮮水軍の動きに目立った物は無くなったという。
歴史は常に動いている。
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沈惟敬(ちん いけい※チェン ウェイチン)を使節として平壌まで進出していた小西行長に停戦を申し出ていた。
結果、天正20年(1592年)8月29日、50日間の休戦協定が締結された。
一方、残存勢力を結集させ、大小合わせて150余の艦隊となっていた李舜臣率いる朝鮮水軍は、
休戦協定締結の前日、釜山東方の洛東江上流に日本輸送船団が停泊中である情報を掴み、これを攻撃しようとするも、
洛東江口が狭小であった為に断念。
翌日、釜山浦で多数の日本船が停泊しているのを発見した李舜臣は、ここで総攻撃を開始した。
しかし、それまで李舜臣に痛い目に遭わされていた日本軍は、日本船の航路に沿って陸上に銃・砲を配置。
輸送船団も、陸上兵器の射程圏内で移動する事を徹底させていたのである。
ここまで水上戦で連戦連勝だった朝鮮水軍も、日本軍の陸・海相互支援攻撃にさらされ、ついに大損害を出して撤退。
これ以降、暫く朝鮮水軍の動きに目立った物は無くなったという。
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