天正20年(1592年)7月16日、
当時の明国遼東副総兵・祖承訓(そ しょうくん)が明本国より李氏朝鮮救援の命を受け、平壌を急襲。
この時、平壌には少数の守備隊しか残っていなかったのだが、一歩も退かずに善戦。
間もなく、第一軍の小西行長、宗義智、第二軍の加藤清正、第三軍の黒田長政、大友義統、
更には第六軍から立花宗茂らが駆け付け、
祖承訓は大損害を出し、遼東まで退却したという。
日本軍本隊の留守を狙って平壌奪還を目論んだにも関わらず、いきなり大敗を喫した明国は、
この後、交渉のテーブルに就く事となる。
歴史は常に動いている。
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当時の明国遼東副総兵・祖承訓(そ しょうくん)が明本国より李氏朝鮮救援の命を受け、平壌を急襲。
この時、平壌には少数の守備隊しか残っていなかったのだが、一歩も退かずに善戦。
間もなく、第一軍の小西行長、宗義智、第二軍の加藤清正、第三軍の黒田長政、大友義統、
更には第六軍から立花宗茂らが駆け付け、
祖承訓は大損害を出し、遼東まで退却したという。
日本軍本隊の留守を狙って平壌奪還を目論んだにも関わらず、いきなり大敗を喫した明国は、
この後、交渉のテーブルに就く事となる。
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