李氏朝鮮首都・漢城陥落と前後して、海上でも動きが有った。
天正20年(1592年)5月5日、
全羅左道水軍節度使・李舜臣(り しゅんしん※イ スンシン)は、艦隊を率いて
全羅右道水軍節度使・李億祺(り おくき※イ オッキ)の艦隊と合流し、
慶尚道水域(釜山近海)に向かった。
5月7日、前月に小西行長や宗義智を中心とする第一軍が釜山に上陸した頃に戦わずに霧散した
慶尚右道水軍節度使・元均(げん きん※ウォン ギュン)率いる艦隊と合流し、
大小合わせて91隻の艦隊となっていた。
同日中、釜山南西の巨済島・玉浦に50隻の日本の輸送船団が停泊しているのを発見した朝鮮水軍は、砲撃を開始。
15隻の日本船が撃沈されてしまう。
翌日は、更に11隻の日本船が撃沈されたが、
朝鮮水軍に損害は無かったという。
それから約一ヶ月、海戦を想定していなかった日本の輸送船団は、李舜臣により手痛い打撃を受ける事となる…。
歴史は常に動いている。
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天正20年(1592年)5月5日、
全羅左道水軍節度使・李舜臣(り しゅんしん※イ スンシン)は、艦隊を率いて
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慶尚道水域(釜山近海)に向かった。
5月7日、前月に小西行長や宗義智を中心とする第一軍が釜山に上陸した頃に戦わずに霧散した
慶尚右道水軍節度使・元均(げん きん※ウォン ギュン)率いる艦隊と合流し、
大小合わせて91隻の艦隊となっていた。
同日中、釜山南西の巨済島・玉浦に50隻の日本の輸送船団が停泊しているのを発見した朝鮮水軍は、砲撃を開始。
15隻の日本船が撃沈されてしまう。
翌日は、更に11隻の日本船が撃沈されたが、
朝鮮水軍に損害は無かったという。
それから約一ヶ月、海戦を想定していなかった日本の輸送船団は、李舜臣により手痛い打撃を受ける事となる…。
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