天正20年(1592年)4月7日、
秀吉の命により対馬に在った小西行長の元に、李氏朝鮮から、日本の軍勢を明国へと案内する旨の協力要請を拒絶するとの返事が届いた。

これを受けた小西行長は、対馬の宗義智と共に渡海準備を整えると、
4月12日、釜山に上陸。

釜山鎮城に道を開けるよう要求したが、
守将・鄭撥(ていはつ?)はこれを拒否。

翌・13日早朝より、宗義智の軍勢が攻撃を開始した。

宗義智は鉄砲の援護射撃と共に梯子を使って城壁を越え、釜山鎮城守備勢をあっさりと駆逐していったという。

戦国の世に日本国内に急速に普及した鉄砲の威力は絶大で、守将・鄭撥も鉄砲弾により戦死し、
昼前には釜山鎮城内の守備兵はほぼ全滅。
宗義智勢は釜山鎮城を占拠したという。


歴史は常に動いている。


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