慶長5年(1600年)7月、
上杉攻めに備えて下野国小山(現・栃木県小山市)に居た徳川家康の下に、
石田三成が挙兵したとの報せが届いた。

自分の留守中に背後を衝かれる形となった家康であったが、すぐに反・三成方諸勢力に書状を出し始めたという。

その数は、200通を超えたとか。

この中には、柳生宗厳宛の物も有り、家康はこれを側に付き従う柳生宗矩に持たせ
同年7月29日、柳生庄に向かわせたのである。

手紙の内容は、筒井順慶の従弟で、養子となって家督を継いでいた筒井定次を中心とした大和一帯の勢力を結集させ、石田勢の背後を牽制させよという事であったという。


歴史は常に動いている。



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