天正10年(1582年)6月2日、
本能寺の変で織田信長が倒れた後、情勢は急速に変化して行く。
信長を討った明智光秀はすぐに豊臣秀吉に討たれ、
翌年、その秀吉が信長の重臣であった柴田勝家を賤ヶ岳で下し、信長の作り上げた権力構造は、ほぼ秀吉の物となる。
天正12年(1584年)、
秀吉と、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)と結んだ徳川家康との間で
小牧長久手の戦いが有ったものの、講和という形で戦いの大義名分が消滅してしまう。
すると、織田信雄&徳川家康に与していた紀州の勢力(寺社や国人衆)は、たちまち秀吉の前に沈黙していったという。
結果、天正13年(1585年)、
紀州は秀吉に制圧され、大和国に秀吉の異父弟・秀長がやって来る。
そこで、所謂、“太閤検地”によって、
柳生の隠し田が発見されたとして、柳生宗厳は柳生庄を没収されてしまったのである…。
歴史は常に動いている。
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本能寺の変で織田信長が倒れた後、情勢は急速に変化して行く。
信長を討った明智光秀はすぐに豊臣秀吉に討たれ、
翌年、その秀吉が信長の重臣であった柴田勝家を賤ヶ岳で下し、信長の作り上げた権力構造は、ほぼ秀吉の物となる。
天正12年(1584年)、
秀吉と、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)と結んだ徳川家康との間で
小牧長久手の戦いが有ったものの、講和という形で戦いの大義名分が消滅してしまう。
すると、織田信雄&徳川家康に与していた紀州の勢力(寺社や国人衆)は、たちまち秀吉の前に沈黙していったという。
結果、天正13年(1585年)、
紀州は秀吉に制圧され、大和国に秀吉の異父弟・秀長がやって来る。
そこで、所謂、“太閤検地”によって、
柳生の隠し田が発見されたとして、柳生宗厳は柳生庄を没収されてしまったのである…。
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