長野業正に従い、箕輪城にあった上泉秀綱は、
1557年から7年の間に、甲斐の武田信玄から6度に渡る攻撃を受けたものの、
その度に攻城軍を撃退した。

上泉秀綱は、“長野十六槍”に数えられ、
長野業正の嫡子・業盛からは
“上野一本槍(こうずけいっぽんやり)”
とまで呼ばれたという。

しかし、永録9年(1566年)
遂に箕輪城は抗しきれず、落城目前となる。

この時、城の搦め手(からめて※裏口)を護っていた上泉秀綱も、覚悟を決めて撃って出ようとしていた。

ところがそこへ、武田方から軍使がやって来たのである。

使者は武田家の御一門衆の一人・穴山梅雪だったと伝わっている。

これが、上泉秀綱の人生の転機に繋がって行く…。


歴史は常に動いている。



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