吉川朝孝は、6歳になると、塚原城主・塚原土佐守安幹(やすとも)の下に養子に出されたという。

朝孝の父・覚賢(あきたか)が、朝孝誕生の折り、嫡男を亡くした塚原土佐守に、近い将来、養子に出すと約束していたようだ。

塚原土佐守は、鹿島城を本拠地とする鹿島氏の重臣で、
天真正伝香取神道流を開いたという飯篠長威斎の直弟子でもあり、
同じく鹿島氏の重臣であった吉川覚賢とは剣術仲間でもあったそうだ。

塚原家の養子となった吉川朝孝は、
以降、塚原新右衛門高幹(たかもと)と名乗る。

鹿島中古流、そして天真正伝香取神道流を学んだ塚原高幹であったが、
応仁の乱が自然消滅してから約30年たった関東・鹿島にも、乱世の波が押し寄せていた…。


歴史は常に動いている。



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