宝亀元年(770年)初頭、
称徳天皇は病に倒れ、同年8月4日、次期天皇を指名しないまま崩御した。
その間、道鏡は太政大臣禅師でありながら、病床の称徳天皇に会う事がかなわなかったという。
朝臣達はすぐに次期天皇の人選を始め、
天武天皇の孫で、この時は臣下降下していた文室浄三(ふんやのきよみ)を推す吉備真備や石上宅嗣らと、
聖武天皇の娘・井上内親王の夫で天智天皇の孫でもある白壁王を推す藤原北家の永手や藤原式家の百川らに二分されたが、
永手や百川が称徳天皇の遺詔と称する偽文書を持ち出し、白壁王に決めてしまった。
8月21日、道鏡は下野国薬師寺別当に任命される。
体の良い左遷だったと言えよう。
この時の白壁王の令旨の中には、
“道鏡が皇位をうかがった”という意味の記述が見られるが、その内容までは確認出来ない。
歴史は常に動いている。
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称徳天皇は病に倒れ、同年8月4日、次期天皇を指名しないまま崩御した。
その間、道鏡は太政大臣禅師でありながら、病床の称徳天皇に会う事がかなわなかったという。
朝臣達はすぐに次期天皇の人選を始め、
天武天皇の孫で、この時は臣下降下していた文室浄三(ふんやのきよみ)を推す吉備真備や石上宅嗣らと、
聖武天皇の娘・井上内親王の夫で天智天皇の孫でもある白壁王を推す藤原北家の永手や藤原式家の百川らに二分されたが、
永手や百川が称徳天皇の遺詔と称する偽文書を持ち出し、白壁王に決めてしまった。
8月21日、道鏡は下野国薬師寺別当に任命される。
体の良い左遷だったと言えよう。
この時の白壁王の令旨の中には、
“道鏡が皇位をうかがった”という意味の記述が見られるが、その内容までは確認出来ない。
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