宇佐八幡宮から和気清麻呂が持ち帰った
“NO !”
という回答を聞いた称徳天皇は怒りに震えていた。

自身の意図していた物とは真逆の結果になったからであろう。

和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられた上に、九州・大隅に配流とされてしまった。

また、和気広虫もまた、別部広虫女(わけべのひろむしめ)と改名させられたという。

これは完全に称徳天皇の腹いせであろう。

しかしながら、八幡大神によって、道鏡を皇位に就けるか否かという議論そのものを否定されてしまった以上は、皇位継承については白紙に戻さざるを得なくなったようである。

神護景雲3年(769年)10月1日、
称徳天皇は群臣に対し
・妄りに皇位継承を求めてはならぬ。
・次期天皇は自分が決める。これは、亡き聖武天皇の遺志である。
という二点を改めて宣言したという。


歴史は常に動いている。



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