不破内親王母子が追放された直後の
神護景雲3年(769年)5月、
大宰府の主神(かんつかさ※祭祀責任者)・習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)と、
当時、大宰帥(だざいのそち※大宰府の責任者)を務めていた道鏡の弟・弓削浄人(ゆげのきよひと)から、
『道鏡を天皇にすれば、天下は安泰になる。』
という内容の神託が、宇佐八幡宮から下されたと奏上された。
これを受けて称徳天皇は、自身に従って出家し“法均”と名乗っていた女官で、前年には“大尼”となっていた和気広虫を、
宇佐八幡宮の神託を伺う勅使に任命したが、この時の広虫は病弱で長旅には耐えられぬと判断され、
その弟・和気清麻呂に代行させた。
同年8月、清麻呂は宇佐八幡宮に到着し、
本殿で宣命(せんみょう※天皇からの命令を、和文体で書いた物)を読み上げようとしていた…。
歴史は常に動いている。
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神護景雲3年(769年)5月、
大宰府の主神(かんつかさ※祭祀責任者)・習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)と、
当時、大宰帥(だざいのそち※大宰府の責任者)を務めていた道鏡の弟・弓削浄人(ゆげのきよひと)から、
『道鏡を天皇にすれば、天下は安泰になる。』
という内容の神託が、宇佐八幡宮から下されたと奏上された。
これを受けて称徳天皇は、自身に従って出家し“法均”と名乗っていた女官で、前年には“大尼”となっていた和気広虫を、
宇佐八幡宮の神託を伺う勅使に任命したが、この時の広虫は病弱で長旅には耐えられぬと判断され、
その弟・和気清麻呂に代行させた。
同年8月、清麻呂は宇佐八幡宮に到着し、
本殿で宣命(せんみょう※天皇からの命令を、和文体で書いた物)を読み上げようとしていた…。
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