藤原仲麻呂が斬られた翌月の
天平宝字8年(764年)10月9日、
孝謙上皇は淳仁天皇のいる中宮院に軍勢を差し向けると、
“仲麻呂との深い関係”を理由に天皇の廃位を宣告し、
同年10月14日には、淡路島へ配流したという。
この時、淳仁天皇を淡路まで送り届けたのは、仲麻呂の乱鎮圧に功の有った藤原蔵下麻呂であった。
淳仁天皇の廃位に伴い、孝謙上皇が復位(重祚)して称徳天皇となり、
淳仁天皇は廃位である為に、上皇ではなく親王という扱いとされた。
淡路に配流された淳仁天皇は、
“淡路廃帝”と呼ばれ、都ではその復権を望む者もいたという。
そんな声に推されたのかどうかは解らぬが、
淡路廃帝は約一年後の
天平神護元年(765年)10月22日、
淡路からの脱出を図るも失敗、捕縛され、
その翌日に病死したとされている。
続日本紀等の公式記録では、
淡路廃帝は病死となっているのだが、実際にはその復権を阻もうとする勢力による暗殺の可能性が高い。
歴史は常に動いている。
Android携帯からの投稿
天平宝字8年(764年)10月9日、
孝謙上皇は淳仁天皇のいる中宮院に軍勢を差し向けると、
“仲麻呂との深い関係”を理由に天皇の廃位を宣告し、
同年10月14日には、淡路島へ配流したという。
この時、淳仁天皇を淡路まで送り届けたのは、仲麻呂の乱鎮圧に功の有った藤原蔵下麻呂であった。
淳仁天皇の廃位に伴い、孝謙上皇が復位(重祚)して称徳天皇となり、
淳仁天皇は廃位である為に、上皇ではなく親王という扱いとされた。
淡路に配流された淳仁天皇は、
“淡路廃帝”と呼ばれ、都ではその復権を望む者もいたという。
そんな声に推されたのかどうかは解らぬが、
淡路廃帝は約一年後の
天平神護元年(765年)10月22日、
淡路からの脱出を図るも失敗、捕縛され、
その翌日に病死したとされている。
続日本紀等の公式記録では、
淡路廃帝は病死となっているのだが、実際にはその復権を阻もうとする勢力による暗殺の可能性が高い。
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