天平宝字8年(764年)9月13日、
三尾で抵抗する藤原仲麻呂と戦う追討軍に、討賊将軍に任命された藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)率いる援軍が合流した。
藤原蔵下麻呂は、藤原式家・宇合(うあい)の九男で、前月に備前国司になったばかりであった。
従兄弟と戦う事になった蔵下麻呂が、孝謙上皇の命令に従っただけなのか、或いはライバルを倒すチャンスと考えて嬉々として援軍を出したのかは判らぬが、
ついに仲麻呂の軍勢は敗れ、琵琶湖に舟を出して逃れようとした仲麻呂は、
当時まだ一介の兵士にすぎなかった石村村主石楯(いわれのすぐりいわだて)に斬られたという。
同時に、仲麻呂に担ぎ上げられて“今帝”と呼ばれていた塩焼王も斬られた。
ここに、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱は、僅か三日で鎮圧されたのである。
歴史は常に動いている。
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三尾で抵抗する藤原仲麻呂と戦う追討軍に、討賊将軍に任命された藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)率いる援軍が合流した。
藤原蔵下麻呂は、藤原式家・宇合(うあい)の九男で、前月に備前国司になったばかりであった。
従兄弟と戦う事になった蔵下麻呂が、孝謙上皇の命令に従っただけなのか、或いはライバルを倒すチャンスと考えて嬉々として援軍を出したのかは判らぬが、
ついに仲麻呂の軍勢は敗れ、琵琶湖に舟を出して逃れようとした仲麻呂は、
当時まだ一介の兵士にすぎなかった石村村主石楯(いわれのすぐりいわだて)に斬られたという。
同時に、仲麻呂に担ぎ上げられて“今帝”と呼ばれていた塩焼王も斬られた。
ここに、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱は、僅か三日で鎮圧されたのである。
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