天平宝字8年(764年)9月11日
藤原仲麻呂(恵美押勝)から600人の兵を集めるよう命じられた高丘比良麻呂から、
孝謙上皇に、仲麻呂の不穏な動きが伝えられた。
仲麻呂の軍事蜂起を知った孝謙上皇は、淳仁天皇の元に、小納言・山村王を向かわせ、駅鈴と天皇御璽を奪わせた。
仲麻呂を信任する淳仁天皇が、勅令を発するのを防ぐ為である。
仲麻呂もこれを察知し、山村王の帰路を三男の訓儒麻呂(くすまろ)に待ち伏せさせ、駅鈴・御璽を奪い還したという。
しかし、孝謙上皇側も素早く反応し、
授刀衞(じゅとうえ※後の近衛府)から坂上苅田麻呂と道嶋嶋足(みちしまのしまたり)を派遣。
駅鈴・御璽を奪還。
藤原訓儒麻呂は戦死した。
仲麻呂は駅鈴・御璽の更なる奪還を試みたが、これが叶う事は無かった。
歴史は常に動いている。
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藤原仲麻呂(恵美押勝)から600人の兵を集めるよう命じられた高丘比良麻呂から、
孝謙上皇に、仲麻呂の不穏な動きが伝えられた。
仲麻呂の軍事蜂起を知った孝謙上皇は、淳仁天皇の元に、小納言・山村王を向かわせ、駅鈴と天皇御璽を奪わせた。
仲麻呂を信任する淳仁天皇が、勅令を発するのを防ぐ為である。
仲麻呂もこれを察知し、山村王の帰路を三男の訓儒麻呂(くすまろ)に待ち伏せさせ、駅鈴・御璽を奪い還したという。
しかし、孝謙上皇側も素早く反応し、
授刀衞(じゅとうえ※後の近衛府)から坂上苅田麻呂と道嶋嶋足(みちしまのしまたり)を派遣。
駅鈴・御璽を奪還。
藤原訓儒麻呂は戦死した。
仲麻呂は駅鈴・御璽の更なる奪還を試みたが、これが叶う事は無かった。
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