道鏡という強力なライバルが現れ、藤原仲麻呂(恵美押勝)は道鏡排斥の手段を模索していたようだ。

天平宝字8年(764年)9月、
仲麻呂は新設された職
“都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使”
を望み、これに任じられた。

これは、畿内一円の軍事司令官に相当する職である。

その規定では、畿内諸国の兵を20人ずつ集めて訓練する事になっていたのだが、仲麻呂は太政官外記(げき※小納言の下)・高丘比良麻呂に600人の兵を集めるように命じたという。

軍事クーデターの始まりであった。


歴史は常に動いている。




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