天平宝字4年7月27日、
既に崩御されていた聖武天皇の后・光明皇太后が亡くなった。
光明皇太后は藤原仲麻呂の叔母にあたり(藤原不比等の娘)、仲麻呂は厚く叔母の信任を得ていたという。
光明皇太后を失った事は、仲麻呂にとって少なからず打撃となったであろうが、
平城京の北方、近江・保良宮への遷都を計画したようである。
“大陸かぶれ”とも言われた仲麻呂は、唐の複都制を真似ようとしたらしい。
天平宝字5年(761年)10月28日、
平城京を改修するとして、淳仁天皇と孝謙上皇は造営が開始された保良宮へ移る。
仲麻呂の思惑どおりになりつつあったようだ。
翌年2月1日、
仲麻呂は最高の官位・正一位に昇進。
光明皇太后の死も、霞んでしまう程の絶頂期であった。
歴史は常に動いている。
既に崩御されていた聖武天皇の后・光明皇太后が亡くなった。
光明皇太后は藤原仲麻呂の叔母にあたり(藤原不比等の娘)、仲麻呂は厚く叔母の信任を得ていたという。
光明皇太后を失った事は、仲麻呂にとって少なからず打撃となったであろうが、
平城京の北方、近江・保良宮への遷都を計画したようである。
“大陸かぶれ”とも言われた仲麻呂は、唐の複都制を真似ようとしたらしい。
天平宝字5年(761年)10月28日、
平城京を改修するとして、淳仁天皇と孝謙上皇は造営が開始された保良宮へ移る。
仲麻呂の思惑どおりになりつつあったようだ。
翌年2月1日、
仲麻呂は最高の官位・正一位に昇進。
光明皇太后の死も、霞んでしまう程の絶頂期であった。
歴史は常に動いている。