将軍後継問題で、義政の正室・富子が接近した山名宗全と、義視の後見人・細川勝元は、実はまた別の問題で敵対していた事がある。

それは、三管領の一家・畠山氏の相続であり、畠山義就を山名宗全、畠山政長を細川勝元が、それぞれ支援していたのである。

文正2年1月18日、京の上御霊神社で畠山両派の軍事衝突が起こる。

将軍・義政は、これを畠山氏内部の私闘と捉え、守護大名達には両派への支援を禁じたという。

しかし、山名宗全が畠山義就に援軍を出し、畠山政長は敗れ、辛くも脱出。
政長はその足で細川勝元邸に逃げ込んだのである。

この戦いをきっかけに、京の市街地を中心に約10年に渡る戦乱が始まってしまう。

世に言う、“応仁の乱”の幕開けであった…。


歴史は常に動いている。