室町幕府8代将軍・足利義政には、継子がいなかったわけでは無い。
男子は生まれていた…
…が、長録3年(1459年)の台風~大飢饉の時に夭折してしまったらしい。
その後、男子に恵まれなかった義政は、
寛正5年(1464年)、天台宗浄土寺門跡・義尋(ぎじん)と名乗っていた実弟に将軍職を譲ろうとしていた。
しかし、義尋は再三これを固辞したという。
当時まだ29歳だった兄・義政に、継子ができる可能性は十分に有ったからである。
しかし義政は、
“今後、男子が生まれても、後継将軍を変更しない。”
という内容の起請文まで書いたので、遂に義尋もそれに応えて還俗し、
足利義視(よしみ)と名乗った。
因みに、“起請文”とは、神仏への誓いの様な物である。
ところが、その翌年、寛正6年(1465年)、
義政に男子ができると、事態は一変してしまう…。
歴史は常に動いている。
男子は生まれていた…
…が、長録3年(1459年)の台風~大飢饉の時に夭折してしまったらしい。
その後、男子に恵まれなかった義政は、
寛正5年(1464年)、天台宗浄土寺門跡・義尋(ぎじん)と名乗っていた実弟に将軍職を譲ろうとしていた。
しかし、義尋は再三これを固辞したという。
当時まだ29歳だった兄・義政に、継子ができる可能性は十分に有ったからである。
しかし義政は、
“今後、男子が生まれても、後継将軍を変更しない。”
という内容の起請文まで書いたので、遂に義尋もそれに応えて還俗し、
足利義視(よしみ)と名乗った。
因みに、“起請文”とは、神仏への誓いの様な物である。
ところが、その翌年、寛正6年(1465年)、
義政に男子ができると、事態は一変してしまう…。
歴史は常に動いている。