嘉吉3年(1443年)7月21日に足利義勝が僅か10歳で病死すると、
その弟・足利義政が、細川持之の次の管領・畠山持国に8歳で擁立され、
文安6年(1449年)4月29日、
元服した後、朝廷から正式に征夷大将軍の宣旨を受ける。
室町幕府8代将軍となった義政は、鎌倉公方や関東管領上杉氏の内紛に介入して行く。
この頃の義政は、3代・義満や6代・義教の様に、将軍親政を目指していたようだ。
その為か、関東への介入ばかりでなく、幕府三管領の畠山氏の家督相続の内紛にまで介入したという。
また、有力守護大名達に対抗しようと、
幕府政所の官僚(文官)・右筆方(ゆうひつかた)や、将軍直属の軍隊として番方(ばんかた)を重用したようである。
初期の頃の義政は、こうして室町幕府トップとしての将軍の体面を保っていたのだが…。
歴史は常に動いている。
その弟・足利義政が、細川持之の次の管領・畠山持国に8歳で擁立され、
文安6年(1449年)4月29日、
元服した後、朝廷から正式に征夷大将軍の宣旨を受ける。
室町幕府8代将軍となった義政は、鎌倉公方や関東管領上杉氏の内紛に介入して行く。
この頃の義政は、3代・義満や6代・義教の様に、将軍親政を目指していたようだ。
その為か、関東への介入ばかりでなく、幕府三管領の畠山氏の家督相続の内紛にまで介入したという。
また、有力守護大名達に対抗しようと、
幕府政所の官僚(文官)・右筆方(ゆうひつかた)や、将軍直属の軍隊として番方(ばんかた)を重用したようである。
初期の頃の義政は、こうして室町幕府トップとしての将軍の体面を保っていたのだが…。
歴史は常に動いている。