嘉吉元年(1441年)6月24日、
前月に隠居を表明した播磨・備前・美作3国の守護にして、元・室町幕府侍所頭人
“赤松満祐”(あかまつみつすけ)の嫡子にあたる教康(のりやす)邸で、
事件は起こった。

この日、赤松教康邸では、結城合戦の戦勝の宴が開かれる事になっていた。

※結城合戦とは、前年に起こった関東公方・足利持氏の遺児・春王丸&安王丸を擁立した下総の結城氏が室町幕府に対抗して挙兵した物である。

ここには、細川・山名・一色・畠山・京極・大内といった有力守護と共に、
室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)も同席していた。

そして、一同が猿楽に興じていた時、いきなり完全武装の兵達が現れ、6代将軍・義教が討たれたのだ。

座は大混乱となり、同席していた有力守護の面々は逃げ惑っていたという。

鎧武者達が将軍・義教以外には危害を加える気が無い事を伝えると、ようやく鎮まったようだ。

これが世に言う
『嘉吉の乱』である。

ここから時代の流れが大きく変わろうとしていた…。


歴史は常に動いている。