藤田五郎(斎藤一)は警視庁退官後、
元・会津藩士で東京高等師範学校の校長をしていた
高嶺秀夫の推薦により、
明治26年(1893年)から、当時、同校附属であった教育博物館(現在の国立科学博物館※上野)の守衛の任に就いたそうである。
同時に、同校撃剣師範を兼任し、学生達に剣術を教えていたという。
明治32年(1899年)から明治42年(1909年)までは、
東京女子高等師範学校に移り、会計の仕事をしていたようである。
それから6年後の
大正4年(1915年)9月28日、
藤田五郎(斎藤一)は自宅の床の間にて、
結跏趺坐(※けっかふざ~“座禅”で行われる、如来の座り方の一つ)の姿勢のまま
72歳で息を引き取ったという。
19歳の頃より、虫の息だった徳川幕府の為に剣を振るい、賊軍扱いされた会津藩に背を向ける事なく戦い続けて敗戦を経験し、
明治の世になってからは官憲となりつつも
西南の役で活躍。
最後は学生達に剣術を教えていたという、近藤勇や土方歳三とは違った意味で、剣と共に歩んだ斎藤一の人生は悔いの無い物だったに違いない…。
歴史は常に動いている。
元・会津藩士で東京高等師範学校の校長をしていた
高嶺秀夫の推薦により、
明治26年(1893年)から、当時、同校附属であった教育博物館(現在の国立科学博物館※上野)の守衛の任に就いたそうである。
同時に、同校撃剣師範を兼任し、学生達に剣術を教えていたという。
明治32年(1899年)から明治42年(1909年)までは、
東京女子高等師範学校に移り、会計の仕事をしていたようである。
それから6年後の
大正4年(1915年)9月28日、
藤田五郎(斎藤一)は自宅の床の間にて、
結跏趺坐(※けっかふざ~“座禅”で行われる、如来の座り方の一つ)の姿勢のまま
72歳で息を引き取ったという。
19歳の頃より、虫の息だった徳川幕府の為に剣を振るい、賊軍扱いされた会津藩に背を向ける事なく戦い続けて敗戦を経験し、
明治の世になってからは官憲となりつつも
西南の役で活躍。
最後は学生達に剣術を教えていたという、近藤勇や土方歳三とは違った意味で、剣と共に歩んだ斎藤一の人生は悔いの無い物だったに違いない…。
歴史は常に動いている。