慶応4年(1868年)9月5日の如来堂村からの敗走後、
会津朱雀隊と合流した山口次郎(斎藤一)は、若松城下で戦い続けていた。

しかし、同年9月22日、
ついに会津藩は新政府軍に降伏。

降伏を受け入れずに戦いを続行しようとする山口次郎(斎藤一)も、松平容保に説得されて投降したという。

その後の山口次郎(斎藤一)は、まずは旧会津領塩川、
その後、越後高田藩に預けられた。

越後高田藩で謹慎した際、
『斎藤一事 一瀬伝八』
と名乗り、会津藩士として扱われたようである。


歴史は常に動いている。