母成峠で惨敗した次の日の夜、
会津新撰組25名は会津城下の斎藤屋という旅籠に集まっていた。

ここで今後の進むべき道について議論がなされたという。

副長・安富才助を含めて10名が北上して、既に土方歳三が向かった仙台藩と共に戦う事を主張したのに対し、
隊長・山口次郎(斎藤一)は、この日までの会津藩から受けた奥義に報いる為に、最後まで会津に止まる事を主張したそうだ。

結局、山口次郎(斎藤一)を含めて14名が会津に残ったという。

“隊名を後に再び起こそうという考えが有ったが、会津の城が落ちようとしているのを見ていると、会津を離れるのは
『誠義』ではないと思う。”

山口次郎(斎藤一)は、このように語っていたという…。


歴史は常に動いている。