近藤勇が大坂に下った13日後、
慶応4年(1868年)1月3日、
鳥羽伏見の戦いが始まってしまう。
旧幕府軍は、火器力の差により劣勢に立たされていた。
そんな中、新撰組は局長・近藤勇不在であったものの、
副長・土方歳三の指揮の下、白兵戦では無類の強さを発揮していた。
ところが翌日、薩長土軍が
“錦の御旗”(帝の軍隊である証?)
なる物を持ち出すと、旧幕府軍は総崩れとなる。
薩長土軍は官軍、
旧幕府軍は賊軍
という解釈だったという。
この時に持ち出された“錦の御旗”という物は、そもそも実在していなかった“旗”を
岩倉具視が『偽造』した物だったにもかかわらず、である。
1月7日、157人居た隊士のうち、100人以上を失った新撰組を“殿(シンガリ)”として旧幕府軍が大坂城まで撤退すると、既に将軍・徳川慶喜の姿は無かった…。
歴史は常に動いている。
慶応4年(1868年)1月3日、
鳥羽伏見の戦いが始まってしまう。
旧幕府軍は、火器力の差により劣勢に立たされていた。
そんな中、新撰組は局長・近藤勇不在であったものの、
副長・土方歳三の指揮の下、白兵戦では無類の強さを発揮していた。
ところが翌日、薩長土軍が
“錦の御旗”(帝の軍隊である証?)
なる物を持ち出すと、旧幕府軍は総崩れとなる。
薩長土軍は官軍、
旧幕府軍は賊軍
という解釈だったという。
この時に持ち出された“錦の御旗”という物は、そもそも実在していなかった“旗”を
岩倉具視が『偽造』した物だったにもかかわらず、である。
1月7日、157人居た隊士のうち、100人以上を失った新撰組を“殿(シンガリ)”として旧幕府軍が大坂城まで撤退すると、既に将軍・徳川慶喜の姿は無かった…。
歴史は常に動いている。