慶応3年(1867年)12月7日、
新撰組隊士7名が紀州藩士・三浦休太郎と共に天満屋の二階で酒を呑んでいたところに、
海援隊・陸援隊合わせて16名が斬り込んで来たという。

三浦休太郎は、いきなり中井庄五郎から一太刀浴びせられたが、額に傷を負ったものの助かった。

直後、新撰組隊士が灯火を消し、闇の中での闘いとなったそうだが、前出の中井庄五郎を討ったのが、斎藤一だったようだ。

その斎藤も、背後から斬られそうになったらしいが、梅戸勝之進という平隊士が割って入り助かったという。

新撰組からの増援が天満屋に到着した時には、海援隊・陸援隊共に、既に引き上げた後であった。

この闘いで新撰組側は、
近藤勇の従兄弟・宮川信吉、及び船津釜太郎の2名が死亡。
斎藤一、中村小次郎、中条常八郎、梅戸勝之進の4名が負傷。
無傷だったのは、大石鍬次郎ただ一人だったが、三浦休太郎だけは負傷させてしまったものの、辛くも護ったのである。

対して、斬り込んだ海援隊・陸援隊側では、
中井庄五郎だけが死亡。
負傷が3名だったという。

これは、所謂“斬り合い”で、新撰組が任務失敗の危機に立たされた事件であった。


歴史は常に動いている。